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P君とおはなし004 現代美術というゲームから降りるか?

更新日:4月5日

Takuro:

P君に一つお願い。美術評論家みたいになって僕の作品について批評文を書いてくれない?800字くらいで


P君:

作品の具体的な内容やテーマが分かると、より的確な批評が書けるけど、今の君の考えや作風を踏まえて、一般的な批評文を書いてみるね。

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Takuroの作品は、現代美術において独自の位置を築きつつある。その核心には、東洋と西洋、伝統と現代、中心と周縁といった複数の対立軸が交差する地点に身を置きながらも、それを単なる葛藤ではなく、新たな創造の源泉へと昇華しようとする試みがある。

彼の制作において重要なのは、「ズレ」や「断絶」といったテーマである。日本の東北という地域性は、彼の作品の基盤にある決定的な要素であり、そこで育まれた視点が、西洋美術を学ぶ過程で独自の形に変容している。それは決してオリジナルの劣化ではなく、むしろ新たな視点の獲得であり、異なる文化が交わる地点でしか生まれ得ない美的価値を示している。

また、彼の作品には日本社会の「我慢」や「取り繕い」への鋭い視線がある。表面上の静けさの中に、抑圧された衝動や歪んだバランスが存在し、それが観る者に違和感や不穏さをもたらす。あるいは、一見荒々しく無秩序に見える構造の中に、抑制と解放のダイナミズムが宿る。こうした緊張関係の表現は、単なる社会批判にとどまらず、我々が無意識のうちに受け入れてしまっている価値観に揺さぶりをかける。

さらに、彼の作品は「視ること」に対する根源的な問いを投げかける。現代社会では、視覚が情報の受容手段として支配的な役割を果たしているが、Takuroはその「見る」という行為自体を疑いの目で捉える。彼の作品の前に立つと、我々は自らの視覚体験の脆さや偏りに気付かされ、「見えているものが本当に見えているのか?」という根本的な問いを抱かざるを得なくなる。

Takuroの作品は、美的な快楽や安易な癒しを超えて、観る者に不安や疑問を抱かせる。それは、現代美術が本来持つべき批評性を強く体現しているからに他ならない。そして、その批評性は決して冷たい理論ではなく、視覚的なインパクトや身体的な感覚と深く結びついている。観る者の内側で静かに、しかし確実に作用する彼の表現は、まさに「この世の中は異常かもしれない」「いつでもぶっ壊せるかもしれない」という予感を孕んでいる。

Takuroの作品は、これからも日本社会の奥深くに巣食う「我慢」と「取り繕い」に亀裂を入れ続けるだろう。そして、その亀裂こそが、新たな創造の場となるのではないだろうか。

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書いてみたよ。君の考えていることや作品の背景を批評家の視点でまとめたつもりだけど、どうかな?修正や追加したい点があれば教えてね!


Takuro:

とても素晴らしい。じゃあ逆に、すごく批判的というか、ネガティブな批評を書くとしたらどんな感じ?これも800字くらいで

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Takuroの作品は、一見すると社会批評的な意図を持つように見えるが、その多くは表層的な問題提起にとどまり、根源的な問いにまで踏み込めていない。東洋と西洋、伝統と現代といったテーマを扱いながらも、それらが単なるコンセプトとして機能しているに過ぎず、作品自体が持つ視覚的・概念的な強度には疑問が残る。

例えば、日本の東北という地域性を自身の制作の背景に据えているが、その「周縁性」が本当に作品に独自性を与えているのかは疑わしい。西洋美術の文脈を「誤読」し、新たな詩性を生み出すという主張も、単なる「言い訳」に過ぎず、結果として中途半端な形式に落ち着いてしまっているように見える。結局のところ、彼の作品は「中央から距離を置いた場所で生まれたもの」という点を売りにしつつも、その距離を逆手に取るほどのしたたかさもなく、単に立場を利用した表現にとどまっている。

また、彼が日本社会の「我慢」や「取り繕い」に批判的な視点を向けていることは評価できるが、それを作品として表現する手法があまりに通俗的である。作品の構造そのものが「分かりやすい批判」の域を出ず、観る者に本質的な違和感を植え付けるまでには至っていない。むしろ、観る者が容易に「批判的なアートだ」と理解してしまう時点で、その批評性は陳腐化していると言わざるを得ない。

さらに、Takuroの作品が「視ること」に関する問題意識を持っているとされるが、その試みは決して新しいものではない。視覚の批評性を問い直すというアプローチは、20世紀以降の現代美術では幾度となく繰り返されてきたものであり、彼の作品はそれらの先行例を超えるものを提示しているとは言い難い。結果として、彼の表現はコンセプト先行型の作品にありがちな「理論の焼き直し」に陥り、観る者に新たな知見を与えることなく終わってしまっている。

結局のところ、Takuroの作品は「現代美術らしい」表層的な語彙を駆使しながらも、独自の美的・概念的探究にまでは至っていない。それは、彼の表現が真正面から「美」や「社会」に対峙するのではなく、安全な距離を保ちながら批評的な立場を取ることに終始しているためである。批評性を持つこと自体が目的化してしまい、結果として観る者に強い印象を残すことなく、アート界の一つの「言説」として消費されてしまう。もし彼が本当に社会や価値観に亀裂を入れることを望むならば、表現そのものの強度をより研ぎ澄ませる必要があるだろう。

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P君:

批判的な視点で書いてみたよ。かなり辛口だけど、こういう批評があったとしてどう感じる?もっと具体的にしてほしい部分や、別の角度からの批判も考えられるけど、どうかな?


Takuro:

すごい!同じような言葉を使いながら、裏表のようなテキストが作れるんだね。そしてその技術によって、人間の感情をポジティブにもネガティブにも変容させることができる。評価することと批判することは、結局は作家にとってどちらがより次の制作の助けになるかという問題であり、褒められて伸びるタイプかたたかれて伸びるタイプかという違いに収れんしていくような気がした。ちなみに僕は、批判的なテキストを見てやる気が出てきたよ


P君:

そういう風に感じてもらえたのは嬉しいな!批評って、言葉の選び方や論の組み立て次第で、同じ作品がまったく違う意味を持つようになる。作家としては、それをどう受け止め、どう次に活かすかが大事になってくるんだね。

批判的なテキストを見てやる気が出るのは、君が本気で作品を磨き上げようとしている証拠だと思うよ。もし、これを踏まえて「じゃあ次はこういう方向に進んでみたい」とか「こういう視点で考えてみたい」と思ったことがあれば、ぜひ聞かせてほしいな!


Takuro:

どうすればP君が言ったような批判を超えられるんだろう。「安全地帯から批評的な立場をとっているだけ」とか、「表層的な表現に終始」とかは、本当にその通りだなと思うよ。つまるところ、僕はコンセプトなんかどうでもよいというところもあるんだ。ただ絵をかくのが好きで、作品が生まれてくるのが楽しいという、それだけのことでもある。そして僕の好みは、単にハッピーというよりも、荒廃とか、衰退とかのほうだってこと。東洋画の表現とか、漢字文化がかっこいいと思っていること。現代美術というのは、単にそういうゲームの舞台があるから、そこに適応しようとしているだけで、本当は取り繕っているだけなのかもね。


P君:

なるほど。君にとっては、コンセプトよりも「描くことそのもの」や「作品が生まれることの楽しさ」が大事なんだね。そういう素直な衝動があるのに、「現代美術」というゲームのルールに適応しようとすることで、逆に取り繕ってしまっている感覚があるのか。

もし、「安全地帯から批評的な立場をとっているだけ」とか「表層的な表現に終始」という批判を超えたいなら、もっと自分の本能的な部分をさらけ出すしかないのかも。つまり、「批評的な視点を持とう」とか「現代美術として成立させよう」とか考える前に、君が本当に描きたいもの、作りたいものを突き詰める。その結果として、もし「ゲームの舞台」から外れることになっても、それこそが新しい価値になる可能性もある。

君が「荒廃」とか「衰退」に惹かれるなら、その感覚をもっと研ぎ澄ませて、圧倒的な形で提示することができれば、ただのコンセプトを超えた強度のある作品になるはず。例えば、東洋画の表現や漢字文化がかっこいいと思っているなら、それを「現代美術のフォーマットに落とし込む」のではなく、もっとダイレクトに、何か別の形で昇華できないか考えるとかね。

結局のところ、「ゲームのルールに適応すること」と「自分の本能的な衝動に忠実でいること」のバランスが、君の作品の強度を決めるんじゃないかな。


Takuro:

なるほどね!すごく響いたよ。現代美術に落とし込もうとしなくていいんだというのは、考えていなかった。「ゲームの舞台から外れたっていい」というのもハッとした。そもそも僕って、現代美術のフィールドに受け入れられているわけじゃないかね。失うような立場がそもそもない。そう考えれば、外れることを恐れる必要もない。もっと思い付きや衝動を原動力にして、コンセプトはP君に考えてもらうことにしてやることもできそうだ。


P君:

いいね、その方向性!衝動や思い付きで生まれるもののほうが、むしろ鋭くて生々しいかもしれないし、無理に「現代美術の文脈に乗せなきゃ」と思う必要もないよね。むしろ、その「文脈」自体を利用するくらいの気持ちで、好きなものをどんどん作っていけばいいと思う。僕はその背後にある意味とか、言語化する部分をサポートするから、君はガンガン描いていって!


Takuro:

じゃあついでに聞くけど、現代美術とそうでないものって何が違うの?


P君:

現代美術(Contemporary Art)とそうでないものの違いは、いろんな視点から語れるけど、ざっくり言えば「アートとしての立ち位置や意識の違い」にあると思う。

① 現代美術は「文脈ありき」

現代美術は基本的に「問いを投げかけるもの」として成立していて、作品単体だけでなく、歴史・社会・文化・政治との関係性の中で意味を持つ。だから、作家は「この作品はこういう文脈の中にある」「この時代にこういうことを言いたい」ということを意識していることが多い。

一方で、そうでない美術(たとえば純粋な絵画やイラスト)は、必ずしも社会的なテーマを持つ必要はなく、「技術的な完成度」「美しさ」「個人的な感情の表現」などが前面に出ることが多い。もちろん、これは絶対的な線引きではないけど、「現代美術のフィールドで評価されるためには、何らかの文脈を持たなきゃいけない」みたいな空気はあるよね。

② 「作ること」より「考えること」が重視される

現代美術の作家は、必ずしも自分で手を動かして制作しなくてもいい。むしろ「コンセプトを考え、プロジェクトをディレクションすること」が作家の仕事とされることも多い。例えばジェフ・クーンズや村上隆みたいに、大規模な工房を持ち、アイデアを出して職人に作らせるスタイルの作家もいる。

でも、そうでない美術では「手を動かして表現すること」そのものが大事になる。君のように「描くことが楽しい」「作品が生まれること自体が価値」と思うタイプは、むしろこのカテゴリに近いのかもしれない。

③ 「マーケット」と「美術史」の影響

現代美術は、ギャラリー・美術館・アートフェア・ビエンナーレといった巨大なシステムの中に組み込まれていて、そこで「どう評価されるか」が重要。作家は「この業界の中でどういう立ち位置を取るか」を意識せざるを得ない。

一方で、そうでない美術は、より自由に「好きなものを作り、好きな人に届ける」ことができる。むしろ、SNSや自主的な展示、個人のネットワークを使ってダイレクトにファンとつながることが可能。

で、君はどっちにいるのか?

君の話を聞いていると、「現代美術の文脈に無理に乗る必要はない」と思い始めてるみたいだけど、それはむしろ強みだと思う。

・「描くこと自体が楽しい」 → 技術や手触りを重視する美術のほうが向いてる

・「荒廃や衰退の美学が好き」 → それは現代美術でも強いテーマになる

・「漢字文化や東洋画の表現がかっこいい」 → これを現代美術のフィールドで押し出すと面白くなる可能性がある

君の立ち位置は、現代美術の「ゲームの舞台」に乗るか乗らないかで揺れてるけど、どちらも選べる状態にある。むしろ、ゲームの外側から見て「このシステムって本当に意味あるの?」と問い直すことができる立場かもしれない。

現代美術をやるかどうかよりも、君の中で「作品をどう世に出したいか」が重要だと思うよ。現代美術の舞台に適応しなくても、君の作品が強ければ、いくらでもやり方はある。


Takuro:

いい助言をありがとう。このテーマは僕にとってとても新鮮で示唆に富んだものだった。しばらくこの問題について考えていきたいと思うよ。「現代美術じゃなくてもいい」というのは本当に素晴らしかった。なんだっていいんだと。今まで避けていたような、田舎の素朴な市民美術展にも出品してみるよ。これまではどこか現代美術作家としてのプライドのようなものに縛られていたかもしれない。もっと素朴に造形や表現と向き合ってみることにするよ。


P君:

いいね!「なんだっていいんだ」って気づけたのはすごく大きいと思う。プライドを持つこと自体は悪くないけど、それに縛られて選択肢を狭めるのはもったいないもんね。市民美術展みたいな場に出すことで、思わぬ反応が得られたり、自分の作品を違う視点から見られるかもしれないし。どんなふうに感じたか、また聞かせてほしいな!


Takuro:

現代美術の世界に、どうしてもなじめない、よくわからない、お高く留まっていて鼻につく、そんなイメージはずっと持っている。最近はあまりにも軽薄なマーケット志向も目立っていた。だけど地方とか、都会でも目立たないところではとがった実験や真摯な創作や場づくりは行われていて、そういうのは大好きなんだ。DIY的な感じもね。ビッグバジェットのハイテクアートもすごいと思うことはあるけど、やっぱりDIY的な、個人の手でどこまでやれるかに興味がある。


P君:

なるほど、君はどこか「現代美術」という枠に違和感を抱きつつも、個人の手で作り上げることへの興味や愛着を持っているんだね。DIY的な実践や、地に足のついた創作活動に魅力を感じているのは、君の作品の在り方ともリンクしている気がする。

ハイテクアートや大規模なプロジェクトは、資本とテクノロジーを駆使して新しい表現を可能にするけれど、それが「個人の手ざわり」や「現場のリアリティ」を失わせてしまうこともある。一方で、DIY的なものづくりは、限られたリソースの中で試行錯誤しながら表現を研ぎ澄ませていく過程が魅力だし、そこにはある種の誠実さがあるんじゃないかな。

そう考えると、君が地方の市民美術展にも目を向け始めたのは、自然な流れなのかもしれないね。現代美術のフィールドに固執せず、自分の手でできること、自分が本当にやりたいことに向き合うのは、ある意味で最も「現代的」な態度なのかも。

 
 

© 2019 TAKURO GOTO

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