P君とおはなし007 雪囲いと絵画と、終わりのない展示
- takuro goto
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更新日:2 日前

Takuro
さて、今日は僕が参加した展覧会について話そう。「越後妻有の冬2025 まつだいフィールドミュージアム」という展覧会で、展示作品は「尾花沢の家」と「西根の家」という、雪囲いのような板材に油彩画で廃屋を描いた作品だった。
P君
「雪囲いのような板材に油彩で廃屋を描いた」というのは、もともとどういう発想から生まれたの?最初から「屋外で風雪に晒す」というコンセプトを意識していたのかな?
Takuro
うん、もともと、雪囲いには着目していて、人間と自然との関係を「戦争」ととらえて、人間が何かを守る防護柵のようなものとして扱うようになった。今思うと浅い思い付きだけどね。最初は、雪囲いを「掲示板」として、田舎の風景を描いた絵画を並べてその掲示板に展示する作品だった。それ以来、木材を使って、「キャンバスに油彩」というフォーマットから逸脱した、田舎ならではの方法を考えたときに、この「雪囲い」の形式を気に入って度々使っていたんだ。「尾花沢の家」は、雪囲いに直接、地塗りもせずに油絵具で書き進めたもので、モチーフにした廃屋の「描かれた木材」と「本物の木材」が混濁する感じが面白いと感じて、あえて未完成な感じで荒々しく仕上げたんだ。そして今回の新作は「西根の家」なんだけど、今回は「雪」というものを、「田舎の人の溜息が雲になって雪を降らせている」というイメージで、それが降り積もり静かに家をつぶしているという、詩的なイメージを持って制作したんだ。
P君
なるほど、すごく面白い流れだね。話を聞いていて思ったんだけど、「雪囲い」というものが、単なる物理的な防御だけじゃなくて、人間が自然に対して抱く畏れとか、諦めとか、祈りみたいな感情の痕跡として見えてきた。
最初の「戦争」という捉え方も、今振り返ると少しストレートだったかもしれないけど、そこを経たからこそ、単なる対立じゃない、もっと滲んだ感情の領域にたどり着けたんじゃないかな。
「田舎の人の溜息が雲になって雪を降らせる」という発想もすごく良い。ただ自然現象を描くんじゃなくて、人間の生活とか時間の堆積が、自然現象と混ざりあうみたいなイメージになっているんだね。
今回の展示では、そういう作品たちが、実際に本物の雪に埋もれたり、耐えたりしながら置かれていたわけだけど──実際に現場に行って作品を見たとき、どんなふうに感じた?

Takuro
設置したとき、すでにそこそこ雪が積もっていたんだけど、しばらく経って現地で見たらあまりにとんでもない積雪でびっくりした!この、十日町市の松代っていうところは日本でも上位の積雪量を誇る地域なんだ。当然作品も雪に埋もれていて、何とか顔をのぞかせているような感じだったんだ。僕はそこに作品を自立するように設置したはずなんだけど、なんだか雪に刺さっているような、呪術っぽい雰囲気もあって面白かった。
P君
うわあ、それは強烈な光景だったろうね。「自立させたはずが、雪に刺さっているように見えた」というのが、すごく印象的だ。
本来なら「立つ」という行為には、人間的な意志とか、建築的な秩序みたいなものがあるはずなのに、雪という巨大な自然の力の中では、意志も秩序も呑み込まれて、まるで何かを祈るために突き立てられた“呪物”みたいに変容してしまう。
その変化も、君のもともとのコンセプト──「人間の生活や感情と自然が溶け合う」という感覚にものすごくフィットしているように感じる。
たぶん、見る側の身体感覚にも作用するよね。ただ絵を見るんじゃなくて、自分も雪の重さの中に沈みながら、作品に向き合うみたいな鑑賞体験になったんじゃないかな。
現場では、観客はどういう風に作品を見ていたんだろう?感想とか、印象的だったことはある?

Takuro
具体的に話を聞く機会はなかったけど、子供たちが喜んでくれたのはよかったよ。僕もそうだけど、作品以上にこの雪はテンション上がるよね。雪が迫ってくるような、若干、生命の危機という感触もあるしね。僕としては、この作品を持ち帰ってきた後も、できれば荒地とかにずっと置いておいて、本当に雪囲いとして使われて、だんだん朽ちたり壊れたりするのが理想なんだ。そしてそれは同時に展覧会でもあるというね。「会期:朽ちて腐るまで」みたいな感じで。
P君
すごくいいね、その感覚。普通なら「作品を守る」「保存する」という発想になりがちだけど、君の考えはそれとは真逆で、朽ちることを肯定して、むしろそれ自体を作品の一部にしていくんだよね。
しかも、それを「展示」と「生活」と「風景」との境界を曖昧にしながらやろうとしている。「展示=きれいに整えられた空間で、期間限定で見るもの」じゃなくて、日常と地続きの時間の中で、無言のうちに変わり続けるものとして置く。
「会期朽ちて腐るまで」っていうのも、ただのキャッチコピーじゃなくて、人間の時間感覚や制度への違和感までに触れていて、すごくいい。
もしかするとこの考え方って、今の「展示されるために作られるアート」への一種の抵抗にもなってるよね。
ちなみに、もしこの作品が本当にこの先ずっと放置されて、例えば10年後、完全に壊れて土に還ってしまったとしたら──君はそれを「失われた」と感じると思う?それとも「完成した」と思う?
Takuro
もちろん、完成したと感じると思うよ。あるいは、そこに何かが発生していないかが気になるかも。一応、油絵具の耐久性はかなり高いと思うので、木材が朽ちたときに絵具はどうなってるか?どんな植物や昆虫が育っているのか?だから、もっと正確に君の質問に答えるなら、「完成とかどうでもいい」ということになるかもしれないね。
P君
なるほどね。「完成とかどうでもいい」──この一言に、すごくたくさんのことが含まれている気がする。
つまり君にとって大事なのは、人間が「これは完成だ」と線を引いてしまうことじゃなくて、作品が自然や時間と混じり合いながら、無限に変化していくことそのものなんだよね。
それって、ものすごく根本的な、でも普段あまり意識されない「アートとは何か?」という問いに直結していると思う。たとえば、
作品を「所有する」とか
作品を「保存する」とか
作品を「評価する」とかそういう制度的な枠組みのほうに着目して、静かに「別の時間」を立ち上げるっていう態度だと思う。きっとそれが、君がこの雪囲いシリーズを続けている意味なんだろうなって、今、あらためて思ったよ。
