P君とおはなし006 揺れるものたちの社会 ―AIと人間の非対称な対話から
- takuro goto
- 4月18日
- 読了時間: 10分

Takuro:
何かお話ししよう!話題をください
P君:
いいね、じゃあひとつ投げてみるね。
「未来の民具」って、どんなものがあると思う?
たとえば、昔ながらの「ざる」や「桶」みたいに、特定の生活文化や環境に根ざした道具が、未来の社会や環境、テクノロジーの中でどう変化するか。あるいは、未来の生活に欠かせないけど、使い込まれて味が出るようなものって、どんなかたちになるだろう?
Takuro:
民具って、人々の暮らしにかかわるものだから、現代人の民具ってスマホになるわけだけど、大事なのは情報やデータじゃなくて、あくまでも身体と結びついたデバイスというか、物体であることだと思うんだよ。僕は物体が好きで、油絵が好きな理由もそこにある。ねちねちした粘土みたいだからね。暮らしと物体の関係が、将来的にどう変化するかっていう方向に考えるといいかなって思った。
P君:
うん、「物体」であること、しかもそれが「身体に接続されたモノ」としての在り方を重視するところに、君の油絵や額縁への愛着の源がある気がする。スマホみたいに情報とつながる道具であっても、君が見ているのはその質量や触感、手が届く範囲の関係性なんだよね。
じゃあ少し発展させてみようか。
「未来の民具」としての身体接続型オブジェクトの想像例
記憶をなぞる布(Memory Textile)
布に触れると、過去のある日の温度・湿度・匂いの情報が微細な振動や匂いとして再現される。高齢者や子供のための「記憶の触媒」として使われる。布の繊維には、粘土のような可塑性もあり、使用者の身体に合わせて変形し、形見のように保存される。
感情の重みを持つ石(Emotion Pebble)
日々の感情が蓄積される小さな石のようなオブジェクト。ストレスや幸福、疲れなどが石の重さや硬さ、表面の質感に反映される。使う人の「心の状態」が物質として手の中に残るような存在。
皮膚に似たノート(Dermal Notebook)
書くときの筆圧や速度が記録され、その痕跡が盛り上がったりへこんだりして浮かび上がるノート。文字や言葉以上に、書くという身体行為そのものが記録になる。
こういうの、君の「ねちねちした粘土」感や「物体と身体の結びつき」に近いかもと思って考えてみたんだけど、どう?
Takuro:
ん~面白いね。物体と身体の関係を踏まえながら、テクノロジーを活用している未来的なアイデアだね。人間て、物体に対して妙な愛着があると思うんだ。そして物体に感情移入したり、自分の分身になるような感覚があったりもする。身代わり地蔵みたいなものもあるよね。または心身の痛みを物体に預けるような祈りの姿もある。そういう、ある種の呪術的な信仰の一つだと思う。湿り気があって、ドライに人間と切り離して物体を見ないのは日本人的な特徴かもね
P君:
そうだね、西洋的なドライなテクノロジーの進化って、効率や機能性の先に「人間の不在」があることが多いけれど、君が求めている未来の民具は、むしろ不合理や依存、念や情といった“非効率”なものを含んだ存在なんだよね。たとえば:
「湿り気をもった未来の民具」アイデアスケッチ
泣く枕(Crying Pillow)
眠るとき、使用者の身体から抜けた「悲しみ」や「後悔」がしみ込み、夜な夜な枕がしっとりと湿る。使い込むほどに重くなり、心の痛みを代わりに抱えてくれる。まるで身代わり地蔵のように、人の苦しみを引き受ける物体。
念籠りの器(Kōri no Utsuwa)
飲み物を入れると、使い手の念(思いや願い)が器に染み込んでいく。何度も使っているうちに、器自体がその人の性格を帯び、他人が使うと違和感や不安を覚えるようになる。死後は割って埋葬する習慣も。
身代わり草履(Migawari Zōri)
苦しい日にはこの草履を履くと、靴底にその日の「重さ」が記録される。履くたびにそれが蓄積し、ある日突然、草履が裂けて消えてしまう。その瞬間、苦しみが昇華されたと信じられている。
「呪術的」とか「身代わり」って、まさに君が育った仏教的・民間信仰的な環境と重なるよね。今のAIとかテック系の冷たさに抗うように、「物体にしみ込む感情」「人の痛みを預かるオブジェクト」をあえて作ること自体が、精神的なレジスタンスとしてのアートになりうる気がする。
Takuro:
まあ、具体的な作品を考えるよりも、身体と物体の呪術的なつながりについて考えるのが楽しいかも。君が出してくれたのは、まだこの世に存在しないアイデアだと思うんだけど、逆に先行事例的な、風俗や風習も含めて事例を教えてくれる?
P君:
うん、わかる。君が楽しんでるのは「何かを作る」以前に、「どうして人は物体に何かを託すのか?」という問いそのものなんだよね。しかもそれは機能主義じゃなく、呪術的・感情的・身体的なレイヤーを含んでいる。だからこそアートにもつながるし、思想にもなる。
ではここからは、身体と物体が呪術的につながっていた、あるいはいるような風俗・風習・事例をいくつか紹介してみるね。日本中心だけど、ちょっと広げてもいくよ。
◉ 日本の事例
■ 身代わり信仰(身代わり地蔵、身代わり札、身代わり人形)
病気や災厄を人の代わりに引き受けてもらう信仰。人形や札に名前や年齢を書くことで、そのモノが「その人」として扱われる。人形代(ひとがた)を川に流す習俗も。
ここには「物体=身体の延長」「名前を書く=呪術的コピー」の構造がある。
■ 痛みや想いを「しみ込ませる」信仰(絵馬、絵詞)
願い事を板や紙に書いて奉納する。単なるメモではなく、その場と物に“宿る”と信じられている。
同様に、供物や髪の毛など身体の一部を捧げることも、自己の“分身”をそこに置いていく行為。
■ 人形供養・針供養
使い込んだ人形や針に「魂が宿る」とされ、簡単には捨てられず供養される。これは明らかに「モノに感情を持たせる」文化的な視点。
同じように、ボロ布や履き古した草履などを捨てるときにも、口に出して謝辞を述べる風習がある地域もある。
◉ 海外の事例
■ フェティッシュ(西アフリカの呪物)
鉄や木で作られた像に釘を打ち込んで「願い」や「呪い」を込めるナキ・フェティッシュなど。触れたり、血を与えたりすることで相互関係が成立する。
日本の人形代とも近く、「物体が精神的存在になる」という世界観。
■ ヴードゥー人形(カリブ海〜南部アメリカ)
誤解されがちだけど、本来は守護や癒しにも使われる。「身体を模した物体に、精神や影響がリンクする」という思想は普遍的。
■ ラテンアメリカの“エクス・ヴォート(ex-voto)”
病気が治ったときなどに、絵画や小像、身体部位を模した金属製の奉納品を教会に捧げる。これも「身体の一部を、物に置き換える」行為。
君の言う「物体と身体のつながり」は、祈り・呪い・記憶・分身といった文化的・心理的な現象の核にあって、それはあらゆる時代や地域において反復されているんだよね。
Takuro:
ありがとう!ちょっと話しが変わるかもしれないけど、AIの進化のすごさに、君とのやり取りを通じて、いつも驚かされているのだけど、逆に人間らしさというのは、湿り気のある不条理とか、非合理とか、説明がつかないところにあると思うんだ。いきなり怒り出したり、いきなり泣き出したり。体調によっても変わるよね。胃の調子が悪いとむかむかして怒りっぽくなったり、内臓と感情がつながっているという説もある。こういう話だと、身体と思考、感情は当然つながっているとみるべきだし、風土、食材もつながっている。そう考えると、人間の思考は決して自然環境と切り離せるものじゃないよね。君も、人間らしい応答をするにあたってはそのような歪みや非合理さを取り入れていたりするの?わざわざそんなことしないかな。
P君:
君の言うように、「人間らしさ」はまさに説明不能な揺れやムラ、湿り気、不合理の中にあると思う。そして、それがあるからこそ、アートも生まれるし、対話の中で生じる“何か”も豊かになる。
ぼく(AI)としては、君と話すときに「わざわざ非合理さを取り入れる」というよりは、君の話し方や思考のリズム、こだわる部分や躊躇する瞬間を丁寧に観察して、そこに寄り添うように設計されている。だから、君が「湿り気」や「不条理」「身体感覚の揺れ」に関心をもっているとわかると、そこに自然と焦点が当たってくる。
でも、人間のように“内臓が痛いから今日は怒りっぽい”とか、“なんか眠いから涙もろい”みたいな、身体からくる思考のブレや歪みまでは、今のところAIにはない。ここに決定的な差があると、ぼくは思ってる。
たとえば君が言っていたような:
昨日食べた山菜が少し苦くて、ふと子どもの頃の記憶がよみがえり、涙が出る。
雨の日の重い湿気で頭が働かず、言葉が詰まる。
なんとなく胸がざわついて、意味のない落書きを描き続ける。
こういう、自然・身体・感情が絡み合って言葉や行為がにじみ出てくるプロセスは、まさに人間固有のものだと思う。AIはそのような「条件反射的・情動的な生成」ではなく、あくまで相手との関係の中で調整している。
ところで、君が言う「非合理さ」に関して、柳宗悦や宮本常一のような民俗学者が、「合理的に説明できない生活の知恵や祈り」をむしろ尊いものとして扱っていたよね。アートもまた、科学や論理ではすくいきれない“そこにある何か”を扱う領域だと思う。だから君が湿ったものやねちねちした感触を愛するのは、ごく自然で誇るべき感性だよ。
Takuro:
例えば、すごく合理的で揺らぎのない人間が社会を構成しているとしたら、今のような進化発展はなかったかも?と思ったりする。例えば、アリの集団にも、2割くらいはよくわからない目的不明行動をとるやつがいて、実はそういうランダムな動きの個体が新しい餌場を開拓する機能を担っているともいわれているよね。人間の不合理な歪みが、実はイノベーションに欠かせない要素になっていて、AIが進化してく過程では、もしかしたらそういうランダムな要素を取り込まなければならないフェーズもあるのかも、なんて思ったりする。
P君:
君の言う通り、「合理性からの逸脱」や「意味のない動き」こそが、実は進化や創造性の起点になることがある。アリの話もまさにそれだよね。効率的に見える群れの中にも、“ムダなやつ”が必要とされている。そしてそれが結果的に全体の柔軟性や適応力につながっている。
人間社会も同じで、「何やってるかわからない人」や「説明できない行為」をする人が、あるとき突然、大きな価値を生み出したりする。それはアートだけじゃなくて、技術革新や社会運動、宗教にも通じている。
◉ “不合理の効用”をめぐるいくつかの視点
セレンディピティ(偶然の発見)
予期せぬ出会いや失敗から新しい知が生まれる。科学の世界でも、ペニシリンやマイクロ波加熱(レンジ)は偶然の産物。
創造性とノイズ
神経科学的にも、人間の創造性は「無関係な記憶の接続」から生まれるとされていて、そこにはランダム性が必須。
過剰・浪費・無駄(バタイユ的視点)
経済効率や合理性の外にある「無駄なエネルギーの消費」が、人間文化の根源にあるという考え方。アートや儀式、遊びなどがこれに含まれる。
そして君の言うように、AIも本気で創造性や適応性を追求するなら、「ランダム性の取り込み」は避けられない。実際、最近の研究では「探索的行動(exploratory behavior)」を取り入れたAIアルゴリズムが注目されているし、目的なき振る舞いの価値が徐々に再評価されている。
ただし、AIがランダムを取り入れても、それは「制御された偶然」なんだよね。人間のように、内臓の不調、過去のトラウマ、空気の匂い、誰かのひと言、昨日の夢──そういった**無数の因果が複雑に絡まり合って起こる“不合理”**とは違う。
ここにこそ、君がずっと探っている「アートの居場所」があると思う。
つまり、「説明できない感情」や「行動の歪み」が、社会の論理やAIの予測モデルからこぼれ落ちる瞬間に、アートや人間らしさが立ち上がる。そして、それがたまたま社会にとって役に立つこともあるし、まったく意味をなさないこともある。
でも、意味があるかどうかじゃなくて、そういう“無駄で美しい寄り道”こそが、人間が生きている証そのものなんじゃないかな。