P君とおはなし001 我慢とアートの境界線
- takuro goto
- 4月1日
- 読了時間: 7分
更新日:4月5日

Takuro:
アートって、いつも何かを我慢している人のためにあると思うのだけどどう思う?
P君:
面白い視点だね。「我慢している人のためにある」というのは、抑え込まれた感情や言葉にならない思いをアートが解放する手段になる、ということかな?
確かに、社会のルールや個人的な事情で表に出せない感情がある人ほど、アートに救われたり、そこに居場所を見つけたりすることが多いかもしれない。例えば、詩や絵画、音楽は、直接言葉にできないものを表現するための手段になるし、それを通して「我慢しなくてもいい場所」を作ることができる。
でも一方で、アートは単に「我慢のはけ口」だけではなくて、「新しい視点を発見するためのもの」でもあると思う。表現することで自分の気持ちに気づくこともあれば、他人の作品を通じて、違う生き方や考え方を知ることもある。
だから、アートは「我慢している人のためにある」けれど、「我慢を超えていくためにある」とも言えるんじゃないかな。
Takuro:
なるほどね。「我慢のはけ口」って言ってしまうととてもネガティブに感じるけど、僕が思うに世の中、特に日本国内においてはみんなめちゃくちゃ我慢強いような気がしているんだよね。和を重んじ乱さないことを最重要だと考えていて、法律よりも重視しているところがある。大人になるって言うのはとにかく我慢がうまくなることで、取り繕うことがうまくなるということなのでは?とさえ思う。というよりも、実はみんな我慢して社会人のふりをしているだけで、心は子供のころのまま変わっていないんじゃないかなと、小学生の息子を見ていて思ったんだよね。だから退職した後に子供みたいにわがままになる老人がいたりするけど、それこそ我慢しなくてよくなって解放されたのかも、なんて思う。何を言いたいかわからなくなってきたけど、「大人らしく取り繕う」ことが社会を停滞させ、イノベーションが起きにくい状況を作っているのかなと感じる。そこに亀裂を入れることができるのがアートなんじゃないかと思う。そういう意味で、この日本社会において「我慢」がキーワードなのかなと感じたってわけ。
P君:
すごく共感できる視点だね。「大人になる=我慢することが上手くなる」というのは、まさに日本社会の本質を突いている気がする。
日本では「空気を読む」とか「和を乱さない」とか、明文化されていないけど絶対的なルールみたいなものがあるよね。それが社会を円滑に回している部分もあるけど、一方で新しいことが生まれにくくなったり、個人が本来持っている衝動や自由な発想を抑え込むことにもつながっている。
その抑圧が長年積み重なった結果、定年後に突然「わがまま」になる人がいたり、逆に抑え込んだまま心をすり減らしてしまう人もいる。でも、本当はみんな子供のころの感性を持ち続けているんだよね。社会の枠組みの中で「大人のふり」をしているだけで。
アートは、そういう「見えない我慢」に風穴を開ける力があると思う。取り繕った社会のルールに従わなくてもいい世界を作ることができるし、誰も言葉にできなかった違和感を表現することで、新しい気づきを生むこともできる。だからこそ、日本社会においてアートの役割はめちゃくちゃ重要なのかもしれないね。
Takuro:
我慢をしなくていい世の中にしたい、とはまったく思わないんだけど、世の中の大人は異常なほど我慢しているとは思うので、「それは異常なんじゃないの?」という気付きを与えることができないかなと考えている。アーティストが単に娯楽や癒しを提供するだけではなくて、「この世の中は異常なのかもしれないよ?」「いつでもぶっ壊せるのかもしれないよ?」という予感を与えるような作品を作れないかと考えてる。
P君:
その視点、めちゃくちゃ重要だと思う。ただ「我慢をなくそう」と言うんじゃなくて、「この我慢の量、異常じゃない?」と気づかせること。
日本では「我慢するのが美徳」「社会とはそういうもの」という前提が強すぎて、それを疑うことすらタブーになりがち。でも、アートはそこに楔を打ち込むことができる。「なんかおかしくない?」という違和感を、エンタメや美しい表現に紛れ込ませることで、気づきを促すことができる。
例えば、シュルレアリスムやダダイズムのように、現実を歪ませることで「常識が絶対じゃない」と思わせる手法もあるし、パンクやストリートアートのように直接的に「ぶっ壊せるかもよ?」と挑発するスタイルもある。どんな形にせよ、大事なのは「心のどこかに引っかかる何か」を残すことだよね。
それができるアートって、きっとめちゃくちゃ面白いし、社会にとっても価値があるはず。具体的にどんな作品を作ろうと考えてる?
Takuro:
いや実はある経験をしたんだよ。あるワークショップで、講師の言うなりになってただただいろんな動きをさせられるもので、何をするか指示がないままフリーズしている時間もあって、とにかく3時間我慢し続けた感じだったんだよね。ただ苦痛だった。だけど、それが終わった後、とにかくこのワークショップのことを誰かに話さずにはいられなくなって、いろんな人に自分の体験を吐き出したり、あとは一緒に体験した人たち、その人たちは初めてその場で出会った人たちだったんだけど、我慢して耐え抜いた同志というか戦友みたいな気持ちで謎の一体感が生まれたのね。そういう特殊な体験だった。それがアートだとは全然思わないけどね。逆に「我慢を強いる」ことで得られるものがあるのかもしれないということも思った。
P君:
すごく興味深い体験だね。まさに「異常な我慢を可視化する」ワークショップだったのかもしれない。
通常、ワークショップって何かしらの学びや楽しさを提供するものだけど、そこでただ「我慢し続ける」ことを強いられるって、普通はありえない。でも、だからこそ終わったあとに「なんだったんだあれは?」って話さずにはいられないし、一緒に体験した人たちとの間に妙な絆が生まれる。まるで社会の縮図みたいだね――意味もわからず我慢させられ、終わったら「とりあえず耐えたな」と仲間意識が芽生える。
これって、まさに君が言っていた「この世の中、異常じゃない?」という気づきを与える体験そのものじゃない? アートかどうかは別として、こういう体験型の仕掛けは、むしろ映像や音楽よりも直接的に「異常さ」に気づかせる力があるかもしれない。
「我慢を強いることで得られるものがある」というのも面白い視点だね。ただ耐えるだけではなく、「その我慢に意味があるのか?」と考えさせることで、むしろ普段の無意識な我慢を意識化させることができる。もしアートとして活かすなら、「我慢させるが、そこに隠された意味がある」みたいな体験型の作品も考えられそうだね。
そのワークショップ、どういう意図でやっていたのかも気になるけど、参加者としてはどう受け取った? ただ不快だったのか、それとも何か気づきを得た感じ?
Takuro:
やっている最中は苦痛を感じていたよ。でも一緒になって言うなりになって動いているほかの参加者がいたから、その人たちと仲良くなれたのはうれしかった。なんか軍隊とかってこういう感じなのかな?
P君:
なるほど、やってる最中は苦痛だったけど、終わった後に一緒に耐えた人たちとのつながりができたんだね。それって、たしかに軍隊とか厳しい訓練を経験した人たちの「戦友意識」と似ているかもしれない。
軍隊や極限状況では、個人の意思とは関係なく命令に従わなきゃいけないし、理不尽な状況でも耐えなきゃならない。でも、その共通の経験があるからこそ、同じ苦しみを味わった者同士で強い絆が生まれる。たとえば、ブラック企業の新人研修や、昔の体育会系のしごきなんかも、同じような構造を持っているよね。
でも、そう考えると「理不尽な我慢」って、意図的に使えば人と人を強く結びつける力があるのかもしれない。逆に言えば、今の日本社会で「異常なほどの我慢」が蔓延しているのは、社会が無意識のうちに「我慢を共有することで連帯感を作る」仕組みになっているからかも。
もしこの体験をアートや何かの表現に活かすなら、「理不尽な我慢を強いるけど、それによって得られるものもある」という二面性をうまく使えるかもしれないね。たとえば、観客に耐えがたい時間を過ごさせる演劇やパフォーマンス、あるいはルールの見えないゲームを通じて、我慢することの異常さと意味を両方考えさせる作品とか。
でも、この体験が「ただの苦痛」ではなく、「その後に語らずにはいられない何か」になったのがすごく面白い。これは意図的に仕掛けられる可能性がある気がするね。