【思った】最近の朽ちてる風の作品について
- takuro goto

- 11月27日
- 読了時間: 2分

新潟県南魚沼市にある池田記念美術館にて開催中の「八色の森アートビエンナーレ - 美術館が原っぱに -」に、新作「飯豊の家」を展示しています。

本作は「現代美術やめた」からの「自分の主君(美意識)と心中する」という流れの中で、ちまちま実験している手法で描いたもので、その途中段階というもの。

削ると画面がボロボロになって、ところどころ穴も開く。キャンバス地が見えてきてまだらになって、カビが生えてるか腐ってるみたいな感じだ。

さらに厚めに油を塗って、生き物か生ものみたいにヌメヌメした感じにしている。既成のキャンバスを使いながら、剥がして張って、木枠も削ってとか、様々な処理をして、裏側までいろいろやって、絵画を一体的に、生き物、生ものにしようという感じ。

なんで生き物、生ものみたいにしようとしているのか、特に言葉を用意していない。でも、こうしたくなったのはなぜか。よくある、朽ちた表現の一種。美術の教科書に載っている、ユーリ・クーパー、アントニ・タピエス、ヤニス・クネリス、アンゼルム・キーファー、アンドリュー・ワイエスあたりの、まあそういうのが好きなんだわ。
(ちょっと毛色が違うけど、タイマンス、リヒター、モランディ、ボレマンス、デュマス、ボルタンスキーあたりも好き。グレーで、死のイメージ。巨匠ばかり。結構、みんな死のイメージが好きなんだよね)
日本画でもそういう表現の人たくさんいるよね。あえて朽ちさせるような。
それと何ら変わらないともいえるけど、「油彩・キャンバス」という生き物を構成する「木材、布、地塗り材、鉄釘、リンシードオイル、顔料(鉱物)」といった素材を考えてみたいという気持ちもある。エントロピー増大の法則で、朽ちて、溶けて、拡散する。死に向かっていく。僕にとって美術とか絵画とかの魅力は、その狭間、あわい、にある。完成と未完成、西洋と東洋、カラーとモノクロ、物質性とイシュージョン、幻想と現実、生と死、というところに手触り、フェティッシュな魅力が生じる。ありふれた話だけど。
それを現代美術風にコンセプチュアルな作品として提示する気もなくて。
もう現代美術をやめたから。
とにかく、フェチ的に、質感を求めていこうという感じ。
つづく
