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「ばらばらな場所」を媒介するもの

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二月、石巻市・渡波ある一軒のお宅で開催されていた展覧会「生きる家プロジェクト2025 わたしたちはばらばらの場所で」を見に行ってきました。


会場は、彫刻家・ちばふみえさんのご実家で、2011年の東日本大震災で被災した家屋です。一階部分がすべて海水に浸かり、内装にもその痕跡がありありと残っていますが、家は津波に流されることなくその場に踏みとどまり、いまも修繕の途中にあります。その傷跡を残す家の中に、複数の作家による作品が、それぞれの居場所を見つけるように展示されていました。


中にあるのは作品だけではなく、家財道具もたくさん置かれていました。中でも「ふみえちゃん」と書かれた衣装ケースが印象に残っています。この家には、ふみえさんのおばあちゃんが住んでおられたとのことで、家をケアするという営みは、そのままおばあちゃんへの思いと重なっているように感じられます。

ふみえさんの作品は、どこかとても女性的に見えます。もっと言えば、ステレオタイプな「少女らしさ」に近い印象すらある。それは、僕にとって力強くマッチョなイメージがまとわりついた「彫刻」とは遠く離れたもので、MDFボードを素材にした構造的な造形でありながら、パステルカラーややわらかな紐の接合部、そして三つ編みの髪の毛のモチーフなどが、やさしさ、はかなさ、控えめな存在感を伝えてくるのです。


ギャラリーで見るのとは違い、この一部の構造がむき出しになった家で見ると、作品そのものが「家」であり「おばあちゃん」でもあるようにも感じられました。おばあちゃんに三つ編みにしてもらった記憶、あるいは自分がおばあちゃんの髪を編んであげるようなイメージが自然と湧いてくる。そんな記憶の層と重なっていくのです。


この展覧会は、とてもプライベートな空間に開かれていた表現であったため、僕としては「展覧会を見に来ました」というよりも、「お邪魔します」という気持ちでそこにいました。


実は僕は石巻とご縁を持ってからしばらく経つのですが、どうしても埋まらない距離を感じ続けてきました。それは物理的な距離以上に、心理的なものです。震災の出来事を、どうしても完全に他者のものとしてしか受け取れないことへのもどかしさ、罪悪感。「石巻で表現すること」に対して、自分には覚悟も、それを引き受ける力もなかった。その未熟さや申し訳なさは、これまでずっと整理できないまま抱え続けてきました。


同じ日に、門脇小学校の震災遺構も見学しました。そこは、震災の記録が生々しく残されている場所で、ただただ「言葉が出ない」という感覚になります。深刻な気持ちになり、祈るような思いしか浮かんできません。こうした場に足を運ぶこと自体、自分の中にあるいたたまれなさを整理したい、という無意識の願いがあるのかもしれません。


一方、千葉さんの家はどうか。同じく震災を経験した場であるはずなのに、門脇小学校とはまったく違う心持ちがありました。「極限的な被災の現場」ではなく、今も日常が息づく人の家に「お邪魔する」という、柔らかな距離感とあたたかさがありました。そして、そこで展開された作品の空間によって、僕は初めて「震災」を地続きのもの、自分の地平にあるものとしてとらえられた気がしました。完全に“他者の出来事”としてではなく、「中に入っていけた」ような感覚。やはり、「お邪魔します」という気持ちだったのです。


あの災害は、これまで、まるで遠くの国の戦争を見ているような感覚で、ボランティアをしても、土地の人と話しても、作品を作っても、越えられない断絶がありました。でも今回、展覧会という形式、そして作品そのものが、石巻と僕との間にある壁を媒介し、ゆるやかに開いてくれたのかもしれません。


たとえば、ふみえさんの作品には、衝立のように立ち上がり、穴やスリット、組み合わせによる構造が、見る人の身体を静かに導いていくような印象がありました。僕は今回、初めて石巻という場所に、本当の意味で触れることができた気がしています。

 
 

© 2019 TAKURO GOTO

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