• takuro goto

つぶやき


ここでつぶやくことは期間限定的で、後で読み返したときに恥ずかしくなったら消えるというシステムで運営しています。


最近の制作に関しまして、木の板をチェンソーで刻んで、それを支持体にして制作しているのですが、そのことについて。

コンセプトなどは、いわゆる理屈と膏薬でなんとでも言えるのですが、その発端について。


もともと、岡本太郎賞などで発表した、小さい絵を壁一面に並べて見せるやり方は、絵一点だけだとなんだか弱くみえるというか、戦えない感じがしたので、スイミーみたいにでっかくしたという非常にネガティブな動機もあったわけですが、その原因として、矩形のキャンバスに油彩という形式へのこだわりがありました。


いつ頃開発された形式なのかよく知らないのですが、合理的で軽くて持ち出すのも簡単で、西洋画といえば矩形のキャンバスに油彩という一つの不文律があると思います。その形式を引用して、ずんぐりむっくりの日本人が形式や見た目ばかり西洋を意識して西洋人のふりして真似してコンプレックス丸出し、という主題を作品に盛り込む手段として自作に取り入れていたものでした。なので矩形のキャンバスに油彩という形式は僕にとって単なる支持体を超えた重要なモチーフだったのです。


しかしどうにも矩形のキャンバスに油彩というシンプルな状態のままだと、一つの作品としての塊としての強さというものが感じられず、非常に軽い印象しか得られていないと感じていました。そのことはずっと抱えていた問題でした。


そこに一つの転機として、額装してみた、ということがあります。


新しい職場で多くの美術品に触れ、一つ一つが作品としてのカタマリ感というか、強さを持っているわけですが、その理由がわかったからでした。すなわち、額装や表装によって『固めている』のでした。額装とか表具とか、土台をしっかりデザインしているとか、裏面もしっかり緊張感があることとか。そうして、ただの素の矩形のキャンバス、あるいはまくりのままの書画にはなかった強度が創出されているのでした(もちろん元の作品クオリティが高いのですが、それだけではなくその外もクオリティ位高いということ)。そのような手段で、作品とその外部がしっかりと分断されて、カタマリとしての強さが生まれているのでした。


その学びから、これまでの自分の不見識を恥じつつ、過去の絵を額装してみました。スリムで黒い金属のかっこいいやつ。それは見事に成功して、非常に価値の高い作品であるかのようにバージョンアップされたように感じました。


額装したら良くなるというのは、なんだか本質的な問題から逃げている感もあるのですが、そうではないのです。作品は表面だけで作品になっているわけではないという、当たり前の話なのです。


一方で、もう一つ全く別のプランとして、矩形のキャンバスという支持体をやめるというアイデアも進行中でした。


太郎賞作品や、絵画のモチーフとして、これまでも頻繁に『雪囲い』というモチーフを扱ってきました。ホームセンターで安く売っている、いわゆるザラ板で作られています。札幌国際芸術祭の出品プランでは、この雪囲いのような構造を支持体にして油彩画を描くことにしていました。そこから発展して、縁を刻んで矩形を崩すことでコンセプトを強化できると考えました。


(SIAFプランで、あくまでも矩形は崩さないことにしたのは『絵画』の形式をギリギリ保つ目的もあった。いわゆるそっぺ板で、一枚一枚が歪んでいて、画面が隙間だらけだったから、矩形だけでも保たないと崩壊してた。今回は歪んでいない板で隙間なく面が作れたので、矩形を崩しても成立する気がした)


そのような準備があったことに加え、もう一つ、矩形のキャンバスへのこだわりを捨てる事ができた理由として、コロナ禍やLGBTムーブメントの影響があったと考えています。


コロナ禍、昨年の段階では、欧米諸国の感染者数死者数が群を抜いて高く、東アジア諸国の感染者数の少なさ、対応の優秀さが際立ちました(日本を除く)。そのことは、これまで日本人の身体に染み付きコンプレックスの源となっていた欧米礼賛の思想を溶解させたというか、あれ?なんかおかしいぞ?という疑念が芽生えて洗脳から解かれたような出来事でした。『西洋が最高峰ではない』という、パンドラの箱が空いた感がありました。


もう一つ、BLM運動やLGBTムーブメントで白人至上主義も脱洗脳され、ヘテロ男性優位主義も脱洗脳され、それと並行してルッキズム批判も盛り上がり、上位にあった黄金比的な美の価値が落ち込み、それも脱洗脳で、どうでもいいことになろうとしているという、驚くべき価値観の変容が巻き起こっています(今世界一カッコよく美しいのが大坂なおみであるという事実)。


そのように、あらゆる角度から欧米至上主義の脱洗脳が進み、私自身もそのコンプレックスがどうでもいいものに成り下がり、矩形のキャンバスに油彩という形式を固持する理由が消失してしまったのです。


そうしてついに矩形のキャンバスに油彩ではなく、チェンソーで刻まれて矩形でなくなったザラ板に油彩という『禁じ手』を選択しても良いという気になったのです。


その効果は思ったとおりにうまくいき、作品に、額装によらない強度が生まれ、かつ『窓』のように現実世界との分断が起きない、現実と地続きの絵画表現が生まれたのでした。支持体と絵具と筆致とモチーフが、いまだかつてない一体感で絵を固め、かつ、境界線は揺らぎながら未分化な状況を創出しています。


『藪をそのまま切り出したような』という素晴らしい表現をしてくれた方がおり、とても気に入っています。


以上


ついでにいえば、家族と暮らし定職につき目の前のことに向き合うのに必死みたいな生活で、判断が大胆になっているというか、細けえことはいいんだよみたいになっているというか、開き直りというか、ハートが鍛えられたのかもしれません。(ハートが美術史をドライブするとは、こういうこと)