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山形ビエンナーレ2024の感想


硫黄泉が温泉街を流れる


山形ビエンナーレ2024は蔵王温泉と東北芸術工科大学7階ギャラリーを会場に展開していた。大学のほうは、小難しいという感想をちらほら聞く。そもそも博物資料と芸術作品を同等の素材として扱いながら、その垣根を除いて「驚異の部屋」的なアプローチで展覧会を構成することがコンセプトなので、多少学術的になったりエンタメ性が薄れたりすることはあるかもしれない。とはいえ、このジャンル越境的というかアンチジャンルというか、そもそも「分類」そのものが明治に導入された西洋的科学的視点に過ぎないことを踏まえれば、本展は近代化や西洋化を解体し問い直すものであるともいえ、ありふれた美術展とは一線を画すそうとうに実験的な展示でもあるのだ。


一転して、蔵王温泉での展示はかなり余韻を残す興味深さがあった。

2000年に開催された大地の芸術祭に端を発する地方芸術祭では、都市では実現不可能なスペクタクルなサイトスペシフィックアートが多くのアートファンに新鮮な驚きをあたえ、鑑賞に体力や不自由さを求められながらも里山の風景を楽しむ爽快なアクティビティ要素も相まって、都市のアートファンのための祭典であったと批判される向きもあるが、それは確かに大衆的なエンタメとしても十分に機能するフォーマットでもあり、運営の手腕により経済効果も高く、以降は日本中に広がり地域アートとして日本アートシーンの一大潮流となった。しかし二回りの月日が経過して何を見ても既視感が強くなり、いよいよ終焉を迎えつつあるかという中にあって、今回の蔵王ではまったく新しい形の地方芸術祭の萌芽を見た気がする。


なんといっても特筆すべきは「物体が無い」ということだ。というと正確じゃないが、少なくとも芸術作品としての「物体」や、空間を占有しての映像作品やインスタレーション作品が後退していることは間違いない。さらにその物体やインスタレーションも存在感が薄い傾向のものばかり。ここまで「ことば」(あるいは音、というか、心の動きというか)にフォーカスした展示はほとんど経験がない。作品の存在感が薄いことで、そこにある風景(というかロケーション)や鑑賞者の心の動きが増幅される効果がある。これまでの芸術祭を含む多くの展覧会では、作品に圧倒され、それを受け止める態度をとらざるを得なかった。主従関係というか、主導権が作家側にあることは疑いようのない自明なことであった。


しかし、これは物体が無い「ことば」がメインだからそうなったというわけではない。「ことば」はいくらでも強く汚く残酷にも傲慢にもできるからだ。なので、本展の特徴を正確に言えば、暴力性の排除にあるといえる。それは傲慢さ、批判的ふるまい、自己顕示欲、支配欲、なども含まれる。すなわちこれまで自明であった作家優位の主従関係を極限まで薄めた事例と言えるのではないか。


しかしよくよく考えれば、蔵王温泉で芸術祭が行われるというときに、この雄大すぎる自然環境と歴史ある湯治場に、そもそも暴力性が入る余地がないともいえる。そういう意味でも、都市的な価値観とは一線を画す、ここでしか成しえない価値を生み出した稀有な芸術祭であった。


欲を言えば、詩や短歌の看板に読み手の名前が無ければなおよかったのではないかと個人的には思う。「誰も知らないアーティスト」の、一つの完成系にふさわしいものになっただろうから。


(いくらひそやかでエゴイズムを排したかのように見えても、空間を支配するという点において暴力性を免れない例というのは枚挙にいとまがない。でもそれすらなくなった後の芸術において排除された暴力性はどこに行き場を求めるのか?)


(しかし僕の中で、アート疲れ、心離れが芽生えていることもまた事実。暴力の依り代としての芸術はやっぱり若い時だけのものであって、年齢を重ねると共感できなくなってしまう)


(だからと言って、当然、言うまでもなく、僕の居場所はここにはない。昔からそうだけど、あまりにも清らかな世界観だといたたまれなくなってしまうから)


(作品が作品然として空間にあることがとてつもなくダサく感じられてしまうようになった可能性。JPOPにおけるサビがたちまちダサいのと同じような感覚で。そして空間を支配することもダサい。アノニマスであることでそれを回避しながら空間を引き立てることができそうだ。ビンテージ、作者不詳の古美術の魅力に通じる。本展はそこに一筋の可能性を示した。)



(僕のメンタリティはなんだかんだ言って個人の価値に帰結してしまうのだろうか。どれだけその価値を薄めようとしても。創作の目的を交流に求めるわけがないし。評価し合うことではなく、自分の手ごたえを重視するし。自分が一人でどういう世界観を提示できるのか自分で見たいだけだし。そこに利他的な心情は無いし。作家はどこまで行ってもエゴイズムを排除できない。開き直ってしまえば、すごい作品を作った個人というものに最も価値をおいてしまう。力を発揮して、一人の力でどういう作品を作ったのか。どういう物体を、空間を作り上げたのか。そういうことに興奮し、敬意を抱いてしまう。それがアグレッシブであるほどに。そういう意味で、すべてが退屈だ)


(人を喜ばせるのが好き。笑顔にするのが好き。楽しませるのが好き。驚かせるのが好き。そういう感覚を僕は持っているのか。いやいや、やっぱり「おお」「かっこいい」「ゾクッと来る」のような、僕がこれまで作品を見たり音楽を聴いたり展覧会に行ったりして体験してきた感覚があって、それをもたらしたいと思っているのだ。それは、他者に寄り添うとかではなく、それを横において、圧倒的に力強く裸の自分の価値観や世界観というものを自己肯定して誇示するということに他ならない。それがたとえ、結果的に人を怒らせたり、悲しませたり、不快にさせたり、信頼を失ったり、まったく相手にされなかったりするとしても。いかなる迷いも、恥も、逡巡も突き抜けて、開き直りともいうべき境地にあって、初めて他者に理屈を超えた感染を引き起こすことができる。)

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