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Takino Open studio

山形市から西に向かい、峠を越えて麓に差し掛かると、左手に古めかしい木造平屋の建造物が見えてくる。滝野交流館と呼ばれるこの建物は、もとは明治期に建造された滝野小学校の学舎で、平成10年度をもって閉校してからは地区の公民館として使用されている。そのうち、昭和初期に増築された教室部分をアーティストの制作スタジオとして貸しており、僕は2009年に展覧会のために大作を作る必要から作業場を探していたところ、人づてにこの旧教室を知り、以来ここを拠点に活動を続けてきた。

​ このオープンスタジオと銘打った展覧会は、個展未満の実験的な展示として、2013年から2017年まで毎年1回、計5回開催したものだ。開催するまでのいきさつは以下の通り。大学を卒業してからというもの、まったく展覧会の予定もなく、声もかからず、とにかく腐りきっていたところで、2011年に東日本大震災が起きた。この部屋も大いに揺れたが、誰も近くにいないこともあってそのまま制作を続け、帰宅時になって停電を知り、後に大惨事を知った。それからはとても制作しようという気分にはなれずにいたのだが、翌年に展示のために大作を多く作る機会を得て、震災や、理想とあまりにもかけ離れた自分の現状などの鬱屈した感情や思いを、すべて作品にさらけ出した。それは、内臓のような形態が画面全体に描かれたもので、今振り返ればあまりにも軽薄で幼稚な感情の吐露だったが、これを契機に制作に向かう意欲が高まった。

 「もう誰かから拾われるのを待つのはやめだ」と、半ば開き直り、この場所で勝手に展示して勝手にインターネットを通じて広報することにした。ちょうど「紅花まつり」という町主催のイベントが滝野交流館を会場に催されるというので、それに合わせてオープンスタジオを開催。ホワイトキューブではないことを前向きにとらえ、壁面を使わずに絵画そのものや木材を用いて壁面や通路を作り、アクティブな展示空間を演出した。突如として立ち上がった芸術空間に、事故的に出会ってしまった来場者たちは様々な反応をくれた。中には大いに感動を伝えて激賞してくれる方もいた。ネットでの広報を見て駆けつけてくれた友人は、自分のブログに長文のレビューを書いてくれた。

 これは僕にとって、極めて重要な出来事になった。その後も趣向を変えながら、毎年1回の展示を行い、それを通じて展示用具も一揃いして、技術も養われた。僕は、自分自身で立ち上がってやり遂げたこの経験を本当に誇りに思っている。

 その後、かねてより親交のあった山形県七日町のアーティストシェアハウス「ミサワクラス」の面々と再度交流が始まる。彼らも僕と同じように、開き直って自分の部屋で展示企画を行っていたのだ。意気投合した僕たちは、合同企画を実施したりしながら、やがて山形芸術界隈という運動にその歩みを進めていくことになる。そうして現在、オープンスタジオは休止状態にあるが、いつでもここに立ち返ることができるという確固たる自信が、今の活動全体を支えるものになっているのだ。

© 2019 TAKURO GOTO

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