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山形新聞_日曜随想


1月29日より、山形新聞の日曜随想コーナーで連載が始まりました。私は5週に1回くらいのペースで登場します。文教のこと、後藤のこと、長井のこと等紹介してまいりますのでよろしくお願いいたします。


最近、文教の杜の運営が、山形藝術界隈の延長線上というか、発展形というか、人口が減少している地方都市での芸術実践という意味では、より公共的な実践編と言えるのかもしれないと考えています。山形藝術界隈で僕個人が抱えていたコンセプトが、そっくりそのまま続いている感じです。いわば、アンチマチズモ。そしてアート思考。アートの効能はカオスにあること。あるいは法外の営みであること。それによる活性化、すなわちイノベーションであること。それを地方都市で実践するときにはデザイン志向が必要。法の枠組みの中に入れ、整理分類し、秩序化すること。山形藝術界隈においては、秩序化や枠組み化をいかにして回避できるかということも戦いのテーマの一つでしたが、公共的な立場での実践となると、一層厳しめの戦いになると思っています。しかし美しく体裁を整え過ぎればアートの効能が霧散してしまいますので、依然としてこの戦いを継続することになるだろうし、それこそ活性化の正体だろうと思います。

山形藝術界隈のもう一つのテーマは、ここにアートシーンを作るというものでした。いや、そこにあるものがもうすでにアートシーンだよと言われれば、まったくその通りで反論もないのですが、当時は都市的なシーンしか想像していなかったから、何かあこがれも含んで、卑屈さも含んでのイメージがあったのだと思います。しかし、今文教の杜で実践することは、もちろん都市のアートを横目に見ながら、ということではありますが、ここでしか発生しえないアートシーンはあるか。それをどのように作ることができるのか。もうすでにあるとしたら、いかにしてキュレーションするか。そのような考えで動いています。

つまり、高い値段で絵画が取引されるアートシーンはここにはないけれど、知人関係の中で作品を購入したり、骨董屋で郷土作家の掛け軸を購入したりして、季節ごとに楽しむというような文化は厳然としてあるわけです(持ち家も多いし、3世帯同居も多いし)。都市の価値で、あるいは欧米の価値で良し悪しを判断したら、地方なんてすべてが低質で文化格差がどうこうという話になるでしょうが、そういう話には乗らないことにする。衰退する地方の世界観からしか生まれないものがあるので。アンチマチズモというのは、強いものも弱いものも、それにしか出せない魅力があり、それにしか語れない物語があるということの肯定ということなので、時代も明確にその方向に向かっているところなので、――と言いつつ、時代がそのように向かっていることをどのように肯定するのかも気になる、西洋社会の民主化の欲望の現代版だと思うので。非欧米県のアーティストやコレクティブがアナーキーなアクティビズムとアートをドッキングした熱い動きを称賛する身振りもまた同様に――僕の試みも大いに肯定されるだろうと思っています。そのことの良し悪しはあれども。


日曜随想での肩書に、文教の杜事務局長+画家としていることの意義を重視した展開にしていきたいと思います。

© 2019 TAKURO GOTO

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