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【見た】誰しもが京本とともに作る――ルックバック備忘録

8月27日
読了時間: 5分

更新日:9月8日


藤本タツキの漫画「ルックバック」は、2021年に読み切り漫画が公開されたときに読んで、その後アニメ化されて、今度は是枝裕和監督で実写映画化。すごい展開にめまいがするほど。世間的な評価がものすごく高いということは疑いようがない。


その点、正直に言うと、僕はずっと、その評価にピンと来てなかった。

藤野と京本の、お互いへの嫉妬や憧れ、そして友情、そこに制作の喜びを見た。

また京アニ事件を念頭に置いたと思われる通り魔の描写も、才能という視点で見ると、作家のステージに行けないことの苦悩として見ることもできる。

だけど、友達の死というエピソードの挿入がどこか唐突に感じられて――もちろん実際の事件の衝撃を表現するにあたってはその唐突さが重要ともいえるけど、事件をストレートに引用しすぎている感じが気になって、いまいち乗れなくて、作品自体の評価がやたらと高いことに疑問を持っていた。


また、創作の喜びや尊さへの共感が本作の評価を高める一因になっている。最も嫉妬の対象になっていた京本が、実は自分の最高のファンだったことを知って、あぜ道を全力スキップで走るシーンは、まさに本作のクライマックス的シーンだと思う。だけど、僕にとっては、創作の喜びをより感動的に昇華した作品といえば「アナと雪の女王」がある。人々に非難され、精神的に追い込まれたエルサが雪山に逃げ込んで、そこで、生きづらさや不条理さで抑圧された精神をすべて解放して、想像力を羽ばたかせて巨大な氷の城を作り上げるという、あのシーンは映像も音楽もすべてが完璧すぎて歴史的だと思う。個人的には、ルックバックにそこまでの感動を感じなかった。


だから、世間の評価が過剰に思えていたんだけど、最近、やっと腑に落ちた。


そのきっかけは、よく考えたら、僕にとっての京アニと藤本タツキやその世代にとっての京アニって、まったく受容の仕方が違うんじゃないかという思い付きだった。彼ら世代にとっては、京アニの影響力って、僕が思う以上にとんでもなかったのかもしれない。あの事件の衝撃も喪失も、僕が感じるものとは別種で、まさに人生を共に歩んできて、喜び、嫉妬、興奮、様々な感情と、自分の制作とが並走していたような、まさにパートナーで、それとの死別に近い感情があったのかもしれない。


そう思い直すと、アナ雪との比較自体が、そもそも的外れだったことに気づく。エルサのシーンは「孤高の個人が、誰の力も借りずに、たった一人で自分の能力を解放する」物語だ。僕の感動もまさにその点にあった(だからエルサがラストでみんなの輪の中で小さな氷の魔法を披露するのを見て心底がっかりしたのだ)。でもルックバックが描いているのはまったく逆で、「創作は一人の天才が孤独に成し遂げるものではなく、常に他者と共にある」という話なのだ。だから僕が「創作の喜び」の物語として二つを単純に比較していたこと自体がズレていたようだ。


そして、この作品の構造そのものがそれを裏付けている。小学生の藤野は、最初は一人で漫画を描いていた。そこに京本が現れて、二人で描く時間が始まる。そして最後、藤野はまた一人机に向かう。でもそこでは「一人」の意味が変わっている。

 

もちろん、創作は模倣から始まるという当たり前の話もある。誰しもがデッサンの教本や漫画を模写するところから始める。でも、ルックバックが描いているのはもっと個別的で、もっと重い話だと思う。誰にでもある「影響関係」の話ではなく、かけがえのない誰かを失ってもなお、その人が遺したものを背負って描き続けるという、喪失と継続の話だ。京アニという固有名詞の重みは、まさにそこにかかっている。


僕にとっては、親友が唐突に、まったく理不尽にこの世から居なくなってしまうというような衝撃的な体験というのは無いけど、幼少期から鳥山明が生み出すものすべてに感動と興奮があり、幾度となく模写して、もはや先生だと思っているし、共に生きてきたように思う。そして油絵を描き始めてからもシーレとかセザンヌとかいう遠くの国のもう死んじゃった人が一緒にいるし、もう全く会ってないけど高校時代の美術の先生とか、美大の同級生とかも一緒にいる。会ったこともないけど尊敬している作家とかも。そういった人たちに影響受けながら、ずっと一緒に制作してきたように思う。まさに藤野にとっての京本のような存在として。


そう考えると、制作というのは、いつも他者と一緒に営んでいるんだって思う。だから、京本は単に親友、あるいは戦友というだけではなくて、すべての表現者とその遺した作品の象徴なんじゃないか。そう考えたら途端に感動が湧いてきたという感じだ。これは、僕にとっては、自分自身の変化に基づく感情なのかもしれない。エルサのような孤高の芸術家として立つ、というには、僕の状況はあまりにも変わってしまった。かつてのように孤独にさいなまれながら制作する立場ではなく、仕事や家族や友達と大いに関係しながら制作する立場になった。ルックバックを最初に読んだ時から5年経って僕自身の立場が変化したことで、当初のズレた感想が補正され、本作をまったく別の角度から見ることができたのだろう。


そしてその気づきは、僕がこれまでずっと孤独に取り組んできたと思い込んでいた制作についての考えが変化していることにも気づかせてくれた。僕は、誰かの背中を見て、誰かと並走して、そして誰かを背中に背負って制作しているのかもしれない。そしてその「誰か」は、これまで出会った作家友達かもしれないし、もう死んでいる先生や巨匠かもしれないし、会ったこともない作家かもしれない。


今でも、制作は孤独な作業だ。でも、どこかこれまでとは違う気持ちで制作に取り組んでいける。これまでのすべての表現者と一緒にいるという感覚。この作品は、そのことへの感謝と感動を描いていたのだと今更ながら気づいたので、メモ的に書き残す。

 
 

© 2019 TAKURO GOTO

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