【思った】センターピボットと棚田から見るこれからの絵画について
- 6月24日
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更新日:6月26日

作品そのものの造形や、それに添えられるコンセプト、タイトル、ステートメントといった要素が、作品発表において必須項目であるということは現代美術のマナーとして広く共有されており、それらが作家個人に帰属するもの、つまり作家個人から湧き出たオリジナルのアイデアであるということもまた、自明のものとして扱われているように思う。
でも僕は、それらのすべては、作家個人ではなくて、環境が規定するというように考えたい。環境が、個人を通して、作品として表現させているという立場だ。
最近、Googlemapを見ていて、アメリカに緑の円がドットパターンのように敷き詰められた場所があって、気になって調べたらセンターピボット灌漑というらしい。これは、日本と違って雨があまり降らないから、農業のために散水する必要があって、そのために開発されたシステムとのこと。とても長い散水機があって、片方の端っこは円の中心に固定されていて、逆の端っこが円を描くように動く。すると円の内部を一周して満遍なく水が行き渡るというわけ。
さらに、耕運機はGPS管理で渦巻き状に動いて、収穫機も同様に動く。つまりは、ながーい散水機が円状に動くことに規定された農業で、乾燥地、広大な平野、大規模農業などの条件が生み出したシステムで、これが特徴あるドットパターンをGooglemapに描いているのだ。
これは日本の棚田といい対比だなと思った。棚田は、まさに山の傾斜や稜線に沿って作られていて、重力に従って水が回るシステムが構築されている。平地が少なく、降雨量が多い気候条件の下で成立した形態で、独特な景観を形作っている。
つまり、機械が農場の形と景観を規定しているセンターピボットに対して、地形が農場の形と景観を規定している棚田。その前提にはいずれも降雨量などの気候の違いがある。ここに、アメリカと日本の違いや、造形、生活に対する根本的な思想の違いも見て取れるような気がする。気候風土が最も効率的な農業の形を定義して、それがその土地の景観を形作るとともに、人間と環境の関りについて思想的な差異を生んで、世界全体の見方を形作っている。
話を戻して、こう考えると、作品の形というのにも、その発生について別の視点から考えるべきなのではないか、という気持ちが浮かんでくる。つまり、あたりまえのように、市販のキャンバスに市販の油絵具で描画して、市販の額縁に入れるというシステムに、無批判に隷属していることに違和感が出てくる。今、僕が制作しているこの地の、気候風土、地形等の地理的条件や、文化風俗が、必然的に作品のあり様を規定していくような、そういう制作があり得るのではないか。西洋生まれの「キャンバスに油彩」のシステムも、この地においては別のあり様に変容していないとおかしいのではないか。
そして、この時代。
カラーテレビが普及する頃までは、絵画は、やはり最先端の視覚体験をもたらすツールだったし、画家は先端的なクリエイターだった。しかしここ30年くらいの間に、その座はデジタルメディアのクリエイターにとって代わられ、絵画は、イラストとして消費されるか、アプロプリエーションとかシミュラークルとかいう形で、手法やフォーマットを参照するという性質のものに変化してしまった。でも、現代は、またそのあり様が変化していると思う。
しょせんはポストモダンの一連の動きは、停滞した平和ボケ時代の遊戯的な事象に過ぎなかったのかな?なんて思う。現代の美術は、ある意味では有事の美術といえるのでは。この社会状況に対して、芸術は何ができるのか?いわんや絵画をや、という。有事における社会実践としての絵画、という文脈に置きなおす、それが必然なのではないか。
では翻って、いま制作される絵画というのはどんな姿をしているのか。それは、文字通り外観としての絵画の風貌というものと、「描く」という行為そのものの、二つの道筋で考察される必要がある。そうすると、必然的に、世界の状況や、この地の気候風土、人間関係、その他もろもろの条件によって規定されるような絵画の姿というのが導かれる気がしていて、それが今考えている課題、ということになる、かもしれない。