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置賜地区の二つのアートプロジェクトについて




なんかキノコ


辺藝とミナミハラアートウォークという、山形県の置賜地区で開催されていた二つのプロジェクトに行ってきた。


辺藝

ミナミハラアートウォーク


作家やそれぞれの作品について良いだの悪いだのという話はではなく、両者とも地域「芸術祭」というより「文化祭」というのがしっくりくる内容だった。これはキュレーターが不在であるということが要因だと思う。なぜその土地で? その作家がその作品を出しているのはなぜ? 誰と同じ空間を共有している? ロケーションは? そういうこと全部に一応つじつまをつけるのがキュレーターの職能というもので、それが無いととりあえず作品がそこにあるだけになってしまう。そういう意味では物足りなかった。


しかし、その物足りなさの場違いさというか、その前提としている価値観に間違いがあるかもしれない。山形ビエンナーレ感想のつづきでもあるけど、作家が物体としての作品を設置することや、ある空間を支配することへの疑問符がある中で、あるヒントが眠っているように思われたのだ。


(作家の作品やインスタレーションのクオリティを競うことがアートのゲームのように思われ、僕もずっとそうしてきたのだけど、そのことに飽きが来ているのかもしれないし、価値観が変わっちゃったのかもしれない)


(アートシーンという大きな世界観があって、そこに掉さすことだけは外してはならないなどという思い込みが、いかに西洋支配の世界観に準じているかが明らかになりつつある今、そのゲームの価値が著しく目減りしているとも言えるかもしれない)


まずそもそも、これらのプロジェクトが想定する鑑賞者は誰なのかという話だ。少なくともアート熟練の煩型を対象にしていないことは明白だ。そして参加作家の多くは地域で活動する作家たちだ。彼ら・彼女らが創作や交流を楽しんでいることも明白だ。なにか、この二つのプロジェクトは目的のために必要な条件をほとんど達成しているように思えてくる。

(あえてアーティスト・イン・レジデンスなどと銘打つこともなく、そもそもここを拠点にしている作家と交流する機会にもなっている。その時に、何も世界で活躍する作家でなくていいのだ。生活の中に自然に創作が浸透した状態)


つまりこれまでの、大地の芸術祭などをはじめとする地域芸術祭が日本にありふれてきた中で徐々に形式化して、そのフォーマットを使っていよいよ小さな地域の中で個人ギャラリーや青年会議所が独自に芸術祭を企画・実施するまでになったということだ。

(地域の中に複数の会場があって、場合によっては屋外にも作品が展示されていて、音楽等のイベントがあって、キッチンカーなどの出店や物販があるというフォーマット。これだけ整っていればいいという判断。)


それは(僕がこれまで見てきた芸術祭のように)きちんとキュレーションされたものではないけど、そのこと自体がどうでもよいものになっているのかもしれない。芸術作品、作家、地域住人、鑑賞者の中で交流が生まれることの尊さと、来訪者が地域を歩いてくれることさえ実現できれば。もしこれで隙のないキュレーションと洗練されたデザインでコーディネートなんてされようものなら、田舎の住人は自分達とは関係ないものとみなしてしまうかもしれない。なのでこの文化祭のような形式は、目的達成のために最も有効なのだといえそうだ。

(よくある、アスクルの展示パーテーションを並べて隙間なく絵画作品を並べているだけという形式。ロケーションを活かそうという発想ではない)


県展やら公募団体やら、そういう形式とは異なる形、すなわち市民芸術祭の別バージョンのような形の発表形式。生涯学習の観点から見ても、芸術振興という観点から見ても、こういう形で市井のものづくり愛好家が発表する機会が生まれたということを喜ばない理由はないのではないか。


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その後、寒河江市で「SAGAEまちなか芸術祭」を見た。もはや前述の情勢を裏付けるように立て続けに同様のイベントが起こっている。先にそれを喜ばしいと言ってはみたものの、今日寒河江を見て、やはり本音を言わねばならないと思った。作家が、作品が気の毒だと。主催者の「これでいいでしょ」感。実績あるアーティストがクオリティの高い作品を提案しても、実施主体がいい加減でキュレーション不在だとここまで意味不明なイベントに成り下がるのかという発見であった。インフォメーションもなく、案内人も不在。誰も芸術祭に関わっている主催側の人間がいない。ウエルカム感を感じない。思想も理想も問いもない。やはり、こういうのは文化祭というのが正しいだろう。芸術祭をうたうのなら、一本筋の通ったものにしないといけない。この地で、なぜ、どういう目的で芸術祭を行うのか。地域に対して、芸術に何ができるのか。地域の何に焦点を当てて、どの文脈を引き継ぐのか。現在や未来の状況や課題とどのように接続するのか。それらが欠けているなら、ただ作品を持ち寄って展示した文化祭に他ならない。

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