• takuro goto

最近見た展示

「ナラティブの修復」https://www.smt.jp/projects/narrative/

「近藤亜樹 ─星、光る」http://www.yamagata-art-museum.or.jp/exhibition/4337.html


この時期になると毎年別件でせんだいメディアテークに行くのだけど、たった500円でいつもすごい展示が見れてとても感謝。近隣でほぼ唯一かつ上質な企画で、どれほど救われているか。こういうことのほんの十分の一くらいの規模でも身近でコツコツやれたらいいなと思う。


「ナラティブの修復」展は、リサーチ系の作家たちの紹介展という感じで、それらの作家がいかにして展示空間を作り上げるかという見本市的な会場だった。、、というとあまりにかんたんに言い過ぎで失礼な感じもするけど、いずれの作家も広い空間をきっちり仕上げていてとても勉強になったし、内容も濃くて軽薄なものはなく素晴らしかった。映像やテキストが多くまともに見ると2日かかるとのことで深い鑑賞はかなわなかったが、様々な学びがあった。


さて、その中で最も印象に残ったのは入り口すぐにある伊達伸明氏の「建築物ウクレレ化保存計画」だ。取り壊される建造物の部材を使ってウクレレを作るというシンプルなもので、博物館的なキャプションとともに展示されている。大変なクオリティで、廃材フェチの完成を存分に刺激する作品群だった。あれだけの作家がいる会場で、なぜウクレレが記憶に残ったのかといえば、まさに個人的な趣味としか言えないが、どうしても「もの」としての作品の強さというか魅力には抗えないものがあるのだ。


リサーチをもとにしてどのような作品が出力されるのかはそれぞれあるとはいえ、本展では8割がた映像とテキストで(単にそれをじっくり見る時間がなかったというだけなんだけど)、それらを核にした展示空間を作る手法には感嘆するものがあった一方で、その核だけあれば空間いらないというか、WEBで済むとさえ言え、美術館で見る意味を考えてしまう。


展示は身体を通じた体験をもたらす装置なわけで、映像の見せ方バリエーションもさまざまに開発されていて、どの手法を採用するかにコンセプトが宿るわけなので、それ自体を否定する理由はない。ただ、本展の大半は装置というか什器のクオリティに依存しまくっていないかという疑問がわいてくる。展示をキュレーションするとか空間で表現するとかインスタレーションとか言いながら、その実態は什器展だったみたいなことは極めて多く、近年ますますその傾向は高まっているし、何を隠そう僕自身もそのことを重要視して、空間良ければすべてよしとか言いだす始末で、いやちょっと待てよと警鐘を鳴らしてくれた展示でもあった。


(繰り返しになるが単に映像やテキストをじっくり見る時間がなかったというだけなんだと思うけど、とにかく什器の美しさが目に入ってきた。シンプルでクセがなく、よく考えられていて。しかし、、例えば以前に同会場で開催されたヒスロム展とか、菊地翼氏の最近のオペラシティでの個展(webで見ただけ)とかは、単純にスペクタクルで圧倒されるのだが、什器に目が行くとかじゃなくてすべてが作品だと理解できる。その点、本展では「作品」というよりは「演出」として受け止めてしまうことが多く、「おしゃれな家具だなあ」とか思ってしまった。無印良品みたいな?そこに必然性はあるのか?とか。。単純に個人的な趣味で什器に目が行ってるだけかもしれないが)。


そのような展示において、物体へのフェティシズムという非常に保守的な感性に訴えかけてきたウクレレ作品はかなり特殊な立ち位置となっていて古風にすら感じるのだが、さすが年の功というか年長世代の貫録を見せてくれたように思えたのだった。


さて、そこで次の話題の「近藤亜樹―星、光る」展について。


東北芸術工科大学が排出した学生の中で最も成功している一人で、十年前くらいに白鷹のあゆーむという文化施設で見た大きな油彩画も展示されていた。当時はなんだかんだいってもその迫力にやられた、というか、敗北感を味わったものだ。東京でも、メイド服を着てほっぺたに絵の具をつけながら無邪気に絵を描く女の子というパーフォーマンスを行っていて、そういう点でも自覚的で批評性も感じたものだった。


その近藤さんの山形美術館での個展。まず、展示壁を全部取っ払った大空間で「うわっ」となる。この空間はなかなか成立させられないと思った。F150が3枚くっついたクソでかい絵をはじめとした大作をメインに、大小さまざまなサイズの絵がシンプルに壁面に展示されていて、この落差というか、遠近感が重要だと思った。


この感じをもっと強く感じたのは、2012年に青森県美で見た奈良美智展だ。クソでか展示室のクソでか壁面(20×20mくらい)に3×3mのクソでかい絵が1点だけ展示されていて、「うわっ」ていうか「うおお~!すげえ!」となった。まさに空間全部作品だと思えた(あれはまず壁が美しかった。年季の入った山形美術館の壁とは違う。。)。


でかい空間にはでかい絵、などと単純には言えないだろう。か。いや言えるのではないだろうか。少なくとも、僕に必要なものは大作だとはっきり感じた。もちろん誰もかれも大空間のホワイトキューブで展示する必要なんてない。それも短絡的な勝ち組志向の価値観に過ぎない。だけど、悲しいかな僕にはまだまだ大きな美術館の大きな空間で展覧会をしてみたいという気持ちがあるらしく、そのイメージで大作を作らないといけない。


つまりは、空間をどうこうするのに什器やら何やらを動員して何とかしようみたいな、いまいち本当に必要かすら怪しい演出に過ぎない、お化け屋敷的、あるいは学園祭的な展示空間、あるいは言葉巧みに壺を売るような、観客をだますような表面的な演出に陥らないために(いま「鑑賞者」といわず「観客」としたことに重要な意味がある。展覧会は受動的なエンターテイメントというより、創作の場なのだ)、作品の強さすなわち作品それ自体がもたらす体験の強度が圧倒的に必要なのだという、ありきたりな結論にたどり着くのだが、この二つの展示から僕が受け取ったのはそういうメッセージだった。