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【思った】権威について

  • 6月24日
  • 読了時間: 4分

更新日:6月26日

臨界点を超えると、水滴が勝手に流れ落ちて、ガラスの向こうの風景を露わにしてくれる。
臨界点を超えると、水滴が勝手に流れ落ちて、ガラスの向こうの風景を露わにしてくれる。

僕がこの地に居を移した7年前には、老人たちは、まだ「若者はなぜ文化団体の活動に参加しないのか」なんて文句を言っていて、その時の僕は、「この地に一石を投じ、楔をうがち、風穴を開ける」なんて意気込んでいたのだが、7年たった現在、そんな文句を言う老人はいなくなり、風穴は勝手に空いていた。こういうこともあるんだ。僕が何をすることもなく、自然に朽ち、崩壊し、荒地が残ったような。


地方は、こうして一つの時代の終わりを迎えたのだ。僕はそれを看取って、残された荒野で遊ばせてもらっているのだ。ここ最近、とても強く、そう実感している。


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僕が生まれてから、そう、35くらいまでは、権威というか、何か対抗するに値するような、重厚な壁というか、そういうものがどーんと鎮座していて、それを超えるために頑張る、ということがありえたように思う。偉そうにしてる先輩、老人、なんぼのもんじゃい、というモチベーションで動いてきたという自覚がある。


でも今は、もう年齢的なものだろうけど、そういう気持ちが起こらない。四十にして惑わずというけど、本当にそう実感している。でも、それだけのことじゃなくて、実は強固な壁のような「権威」なるものが、いつの間にか気づいたらぼんやりしたものになって、霧散していたように感じる。「権威」を崩すような気持ちが、肩透かしにあって、勝手に壁のほうが風化して崩れているような、そういう感覚。


まったく、そういう時代になったのだろう。大きな物語から複数の小さな物語へ、などといわれて20年ほど経とうとしているけど、それがすっかり普遍化した時代に、権威が成り立つはずもなく。新聞からラジオ、テレビ、インターネットとメディア需要が変化して物語の共有はできなくなった。加えて買い物も移動もどんどん個人単位で手配できるようになって、団体化してコストを配分する必要もなくなった。ちょっと感動的ですらある。人間は、地域共同体を必要としなくなった。いくらそこに、人情のような価値を見出そうとしても、大半の人間にとっては足かせでしかなかった。自由になれば、素直に自由を選ぶ。


今、信用できる価値は、ただ金銭だけになった。いや、それすらも危うい。金銭を支えているのも、しょせんアメリカの暴力と資本力でしかなかった。となると、これからは、暴力と資本力が大国間で拮抗して、これからは都度協定を結ぶような法の在り方に変容していく、そういう時代になろうとしているのか。


そんなことを考えるのも楽しいのだけど、話を戻すと、今起きている事態は、人類史始まって以来の巨大な変化なのかなと思う。江戸時代、いやそれ以前から地域に伝わる伝統行事すら、終焉を迎える時代。たかだか60年の文化団体など、あたりまえのように消えて行く。その最たるものが、直葬、墓じまい、安楽死というものかもしれない。このように、死を看取るということが極限にまで希薄化した時代に、表裏一体のものとして「生」も希薄化していくのだろう。「なぜ死なないの?」というのが当たり前のように問われる時代になるかもしれない。そんな時代に権威なんて何の役にも立つはずがない。


どこかで、日本という国自体がそうなのかもしれないけど、諦念が支配しているような、無力感が国を覆っているように感じる。善を志向する人が少ない。よい人間であろうとする人が。いや、そうじゃなくて、それがてんでばらばらで、共有されなくなったのだろう。地域で死を看取ることが善なのだという幻想に、誰もとらわれなくていいという。もはや、何が善なのかもわからない。どこを向いて活動していいのかわからない。なんと、権威は、ある意味では善を規定すると同時に、人間の行動を誘発する装置にもなっていたのか。「善」は普遍的なものだというのは、それこそ幻想だった。今は、唯一残された「金銭」だけが善なる指針となっている。「金銭」は客観的指標だから、善悪を判断しない、中立的な価値。。そこにしか正義が宿らない。









 
 

© 2019 TAKURO GOTO

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