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「誰も知らないアーティスト」になるために――「野草」と「さいかちの実」と「Double Casting」

横浜美術館外壁に施されたsidecoreによる壁画


横浜トリエンナーレ「野草、いま、ここで生きてる」は、アナーキズムの展覧会という印象だった。SNSに散見される「政治性が際立っていて拒否感がある」とかいう向きには、もうさよならをするべきかもしれない。草の根的な、自分たちでやっていこうという自治の精神、アートを隠れ蓑にした抵抗、こういう野生の輝きに、熱狂や希望を感じないのならば。

もはや、かつてのような手法、ミニマリズム的に洗練された知性や、シミュレーショニズムのようなものは有効ではないということ。今、どこに活力があるのか。これを体現している展覧会だった。理屈をこねくり回して議論を深めるという、アート業界的なマナーは、実は西洋主義的であり、マンスプレイニングの土俵であって、それ自体が無効化されつつある。すなわち家父長主義の終焉と、多様性、包摂性の時代へ向かうという意思の表明が本展に見られる熱狂だ。その結果がどうあれ、今は混乱期にある。アート界において、それは福音と言えるかはわからない。いずれにせよ、そのようなアグレッシブなアナーキズムの爆発と、極端なマーケット志向の両極化にあるのが現代の状況だと感じる。

(地に足の着いた制作、地域に根ざし、要素を抽出して具現化する、それはもしかしたら都会から遠く離れた地方においてのみ信仰されるような、老化した日本の良心の残滓なのかもしれない)


また本展では、ほとんど作家の個人名が(記載されていたとしても)頭に入ってこない印象があった。ほとんど全体が初めて見る作家だからということもあろうけど、どれが誰の作品であるということがほとんど無効化されているような、しかしそれだからこそ渦巻く熱量がある。個人vs個人という、もしかしたら暗黙のアートのマナーだったものがあっさりと崩れていく。これは、西洋中心的な個人崇拝の崩壊であり、西洋美術史というものの自明性の崩壊でもある。そしてこの匿名性という問題が、僕にとって、あるいは芸術にとって重大な問題だと感じる。


この匿名性という問題を強く意識させられたのが、昨年2023年11月に仙台メディアテークで開催されていた展覧会「自治とバケツと、さいかちの実-エピソードでたぐる追廻住宅-」だ。


仙台メディアテーク6Fでの展示風景

これは、かつて仙台市内にあった追廻地区という、戦争被災者のために応急仮設住宅として整備された住宅地についての調査をもとに校正された展覧会だ。住民たちがその土地で暮らす権利を巡って行政と70年の長きにわたって交渉を続けてきた歴史を、単に学習的におさらいするというよりは、ささやかな、住人たちの思い出や暮らしの工夫などに焦点を当て、共同体自治について問い直すような内容だった。バラック住宅を模したような会場の設えや、ユーモアに富んだテキストなど、決して重く、硬くならないような優しい工夫の見られる展示だった。これを構成したのがアーティストの佐々瞬と伊達伸明で、2022年に職場で展覧会を依頼した身としては、会場の端々に見え隠れする佐々さん的な演出に反応してしまったのだが、これが重要だ。見え隠れする、というように、作家の存在が出てこない、にじみ出ているが、邪魔しないような、いかにも主役は住人であるというような主張が、いや主張とは言わない、黒子に徹する、あるいは展示会場をコーディネートする業者に徹するようなスタンスで、アーティストの職能が機能している。この姿勢に、僕は脱帽したのだった。徹頭徹尾、住人たちへの敬意で構成されている展覧会――。


すてきな郷土資料館的な展示とも言える。そう、実際に郷土資料館だとしても、勝手に生まれてくるわけではなくて、匿名の誰かが練り上げて作り上げたものなのだ。こういうことを、普段私は全く意識していなかったが、ここにきてその尊さを感じた。


この世の大半の人は、匿名性の中で、公共的な人類に資する仕事に従事している。とくに行政的な立場は、公務員という均質なイメージを持ちがちではあるが、実際は担当者によってその内容が天と地ほど変化してしまうものだ。公教育もしかり。このありふれた匿名者の血と汗と涙の蓄積によって成し遂げられた偉業に比べ、アーティストが同様のことを行ったときだけソーシャリーエンゲージドアートなんて言われて称賛されるのは不公平な感じがするのだ。


いったい、アーティストとは何者なのか。

この異様な自己顕示欲の強さは何なのか。

死後も影響力を発揮しようとするその傲慢さはどこから来るのか。

そのようなことが果たして本当に希望なのか。


そう考えながら、その問いの原点を鮮やかに思い出した。

2006年、東北芸術工科大学の美術館大学構想室で学芸員補助のアルバイトに従事していた時、AIR事業の招聘アーティストとして彫刻家の西雅秋に出会い、その作家としての姿勢や作品の考え方に大いに影響を受けたのだった。


東北芸術工科大学7Fでの展示風景


例えば、大きな器をひっくり返したようなかたちの、双子のような彫刻作品がある。「Double Casting」と題されたそれは、金属を溶かす容器である坩堝を型取り、鉄と銅という彫刻表現には定番の二つの素材でそれぞれ複製したものだ。それらは完成後に長く土中に埋められていたらしく、展示されていたものにはたくさんの土がくっついていた。鉄と銅、その二つの素材を地中に埋めておくと、鉄は次第に腐食して消えてなくなってしまうが、銅は緑青よって守られていつまでもその形をとどめるという。

ここにはいろんな意味内容が含有されていると思われるので、一口にどうこう決めつけるつもりはないが、他にも自分の名前が刻まれた鉄製と銅製の銘板を土中に埋める作品があったり、作家の名刺に肩書の記載が無かったりすることからも、作品(自分の痕跡)を残す、残さない、残る、残らないということへの問いや葛藤があるのだと感じられる。それは羞恥とも罪悪感ともいえるのかもしれない。その葛藤や逡巡にこそ、アーティストとしての誠実さが現れているし、その姿勢だけが、この軽薄な、詐欺師や虚業が跋扈する現代社会に対する唯一の抵抗手段なのだ。人間の我執の愚かさを、開き直ることなく葛藤を抱え込んで制作するしかない。


昨年参加した黄金町での展覧会タイトル「誰も知らないアーティスト」は無名の東北作家を紹介するには半ば馬鹿にしたようなタイトルであったが、今では別の尊さを感じてしまうのだ。


(誰にも知られないこと、評価されないこと、マーケットで成功しないことを恐れるな、ということ)

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